世界で8億以上のファンを持つ世界的ドラマの「オスマン帝国外伝」と「新オスマン帝国外伝」から、オスマン帝国に興味を持った方のために、オスマン帝国について調べてまとめました。
- 滅亡はいつか?
- 滅亡の理由は?
- オスマン帝国の現在の国は?
- オスマントルコとの違いは?
- 民族や言語は?
- 歴代皇帝は?
- 最大でどのくらいの勢力だったの?
などなど、ドラマのついでに予備知識としてお楽しみください。
オスマン帝国の滅亡はいつ?
オスマン帝国の建国は、1299年と言われています。始祖オスマン1世がアナトリア西北部に新政権を作り、王位に就いた年が始まりと言われています。が、実際そのあたりの歴史的資料が乏しくて、正確に建国年を特定することは難しいようですね。
オスマン帝国の滅亡は、オスマン王朝の皇帝制度が廃止され、当時皇帝だったメフメト6世が廃位された1922年です。
1299年から1922年の、623年間「オスマン帝国」は続いたんですね。あんなにも戦争が多く、多数民族が入り乱れている地域で、驚異の長寿国として、今なお歴史に名を刻んでいます。
それ以前に存在していた巨大帝国のモンゴル帝国は、150年余りで解体したのに対して、オスマン帝国は623年も存続したのです。
オスマン帝国が滅びた理由
栄華を極めたオスマン帝国も、19世紀になると雲行きが怪しくなってきました。ロシアやヨーロッパ勢力が力を持ち始め、オスマン帝国は領土を縮小します。
20世紀に入り、第一次世界大戦に中央同盟国として参戦しますが、破れます。敗れた後の講和条約(セーブル条約)はオスマン帝国を解体する内容でした。オスマン帝国の首都だったイスタンブールは連合軍に占領されており、トルコ国民に指示されていた勢力がアンカラに集結し、オスマン帝国を廃止して新政権を樹立したのです。
それまでのイスラム教徒深く関わりのある政権から、宗教を切り離し、民主主義国家に生まれ変わったのです。それが現在のトルコに繋がります。
「トルコ革命」としても知られており、王朝の終わりでもありました。
最後の皇帝メフメト6世の末路は?
それまでオスマン帝国の皇帝だった第36代目の皇帝メフメト6世は、トルコ革命により国外マルタに亡命しました。革命から4年後に65歳で亡くなっています。
この頃すでに、皇統であるオスマン家に政治的権限はなく、宰相や大宰相による政治に置き換わっていました。オスマン帝国の次のアンカラ共和国を作ったのも、ムスタファ・パシャでした。
「オスマントルコ」と「オスマン帝国」の違いは?
- オスマン帝国…1299年から1922年まで続いたオスマン王朝による国のこと
- オスマントルコ…ヨーロッパや他の国から見て、「オスマン帝国」は「トルコ人による国」と考えられており、「オスマントルコ」と呼ばれることが多かった
オスマントルコは、外の国が呼ぶ呼び名だったということです。オスマン帝国の内部には、多民族が入り乱れており、実質トルコ人による国とは言い難いと、国内の人は考えていたようですね。
日本はアメリカのことを「アメリカ」と呼ぶけど、アメリカの人はアメリカのことを「スティッツ」と呼ぶことが多い、くらいの違いです。
オスマン帝国の民族は?
オスマン帝国の支配層は「トルコ人」であり、「トルコ語」を話し、イスラム教徒でした。
オスマン帝国最盛期には、南部はイラクやアルジェリアにかけての「アラビア語」を話す「アラブ人」が多数を占め、北部は「ロシア語」を話す「ロシア人」。西部はオーストリア人やイタリア人も混在し、他にもアルバニア人、ハンガリー人、ベルベル人、シリア人、クルド人、ギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人、スラブ人など多数の民族が入り乱れていました。
オスマン帝国外伝のヒュッレムはロシア人だったし、新オスマン帝国外伝のキョセムはギリシャ人でしたね。
オスマン帝国の領土は最大どのくらい?
オスマン帝国の領土の最大は、すごく広大でした。
ドラマの「オスマン帝国外伝」のスレイマンの時代です。北はハンガリー。西はアフリカのアルジェリア、南はエジプト・イエメン、東はインドに至るほどに広大でした。
人口は最大1500万人に達したと言われています。
オスマン帝国はなぜ強い
「オスマン帝国外伝」なるドラマは、世界で8億人以上もに見られている名作ドラマです。日本で言えばNHKの大河ドラマみたいな感じですが、後宮に主軸を置いている点で、「女性の権力・活躍」に焦点を当てています。
トルコは日本と同様に、世界的に「男尊女卑」の国と言われていますが、オスマン帝国がなぜ強いのかと聞かれると「女性も活躍できる国だったから」と言えます。
ヒュッレム・ヌールバーヌ・サフィエ・キョセム…ドラマでも数々の女性が実権を握って、国を動かしています。
同時にオスマン帝国が強い理由として、イスラム教を政教合体した政権だったにも関わらず、他宗教・他民族に寛大な政策をしたからと言えます。
そのため、国の内部に他宗教の間諜が放たれたりして、ドラマでは苦労していたけどw
オスマン帝国の強さは、ひとえに「多民族・多宗教・性別」に関わらずに人々が活躍できる国だったからと言えます。
単一民族の弱さと違い、多民族ならではの強さを発揮し、どんな民族でも性別でも権力を持てるチャンスがあったからこそ、多くの人によって国家が支えられていたと言えます。
オスマン帝国の歴代皇帝
第1代皇帝 | オスマン1世(1258~1326年) | 1299~1326年 |
第2代 | オルハン(1281~1362年) | 1326~1362年 |
第3代 | ムラト1世(1326~1389年) | 1362~1389年(オルハンの次男) |
第4代 | バヤジト1世(1360~1403年) | 1389~1402年 |
第5代 | メフメト1世(1389~1421年) | 1413~1421年 |
第6代 | ムラト2世(1404~1451年) | 1421~1451年 |
第7代 | メフメト2世(1432~1481年) | 1444~1446年 |
ムラト2世(復位した) | 1446~1451年 | |
メフメト2世(復位した) | 1451~1481年 | |
第8代 | バヤジト2世(1447~1512年) | 1481~1512年(長男) |
第9代 | セリム1世(1465~1520年) | 1512~1520年 |
第10代 | スレイマン1世(1494~1566年)オスマン帝国外伝の主人公 | 1520~1566年(長男) |
第11代 | セリム2世(1524~1574年) | 1566~1574年(4男) |
第12代 | ムラト3世(1546~1595年) | 1574~1595年 |
第13代 | メフメト3世(1566~1603年) | 1595~1603年 |
第14代 | アフメト1世(1590~1617年) | 1603~1617年 |
第15代 | ムスタファ1世(1592~1639年) | 1617~1618年(アフメト1世の弟) |
第16代 | オスマン2世(1604~1622年) | 1618~1622年(アフメト1世の長男) |
ムスタファ1世(復位した) | 1622~1623年 | |
第17代 | ムラト4世(1612~1640年) | 1623~1640年(アフメト1世の3男) |
第18代 | イブラヒム(1615~1648年) | 1640~1648年(アフメト1世の5男) |
第19代 | メフメト4世(1642~1693年) | 1648~1687年(イブラヒムの次男) |
第20代 | スレイマン2世(1642~1691年) | 1687~1691年(イブラヒムの子) |
第21代 | アフメト2世(1643~1695年) | 1691~1695年(イブラヒムの子) |
第22代 | ムスタファ2世(1664~1703年) | 1695~1703年(メフメト4世の子) |
第23代 | アフメト3世(1673~1736年) | 1703~1730年(メフメト4世の子) |
第24代 | マフムト1世(1696~1754年) | 1730~1754年(ムスタファ2世の子) |
第25代 | オスマン3世(1699~1757年) | 1754~1757年(ムスタファ2世の子) |
第26代 | ムスタファ3世(1717~1774年) | 1757~1774年(アフメト3世の子) |
第27代 | アブデュル=ハミト1世(1725~1789年) | 1774~1789年(アフメト3世の子) |
第28代 | セリム3世(1761~1808年) | 1789~1807年(ムスタファ3世の子) |
第29代 | ムスタファ4世(1779~1808年) | 1807~1808年(アブデュル=ハミト1世の子) |
第30代 | マフムト2世(1785~1839年) | 1808~1839年(アブデュル=ハミト1世の子) |
第31代 | アブデュル・メジト1世(1823~1861年) | 1839~1861年 |
第32代 | アブデュル=アジーズ(1830~1876年) | 1861~1876年(30代マフムト2世の子) |
第33代 | ムラト5世(1840~1906年) | 1876年(31代アブデュル=メジト1世の子) |
第34代 | アブデュル=ハミト2世(1842~1918年) | 1876~1909年(31代アブデュル=メジト1世の子) |
第35代 | メフメト5世(1844~1918年) | 1909~1918年(31代アブデュル=メジト1世の子) |
第36代 | メフメト6世(1861~1926年) | 1918~1922年(31代アブデュル=メジト1世の子) |
表を作るのに手が痛くなりました…
日本も戦前の天皇崇拝主義によって、戦争で多くの命が奪われた悲劇を経て、(天皇が悪いとは言っていない。旧体制によって、天皇も国民も痛い目を見たということです。)戦後民主主義国家に生まれ変わりました。
まだまだ日本は世界的に見ても「戦前の帝国感が色濃い」ように見えるところもあるようですが、いいものは残し、悪いものは改善していくことを、どこの国も必死で行っているということですね。
オスマン帝国の全盛期
オスマン帝国の全盛期は、第10代皇帝のスレイマン1世の時です。領土も一番拡大して、人口も一番増えました。
1453年にビザンツ帝国を滅ぼして、首都のイスタンブールを制圧してから、待望のスレイマン1世の時代となったのです。
この時代のオスマン帝国は、西アジアから東ヨーロッパ、北アフリカの3つの大陸におよぶ広大な国土を支配していました。
ドラマでもよく「エジプトに追放」とか言ってますもんね…。
オスマン帝国の歴史【まとめ】
- オスマン帝国の滅亡は、1922年
- オスマン帝国の滅亡の理由は、第一次世界大戦に破れ、トルコ革命による新政権が立ち、スルタン制度が廃位されたため
- オスマン帝国の皇帝だった第36代目の皇帝メフメト6世は、トルコ革命により国外マルタに亡命
- 「オスマン帝国」が正式名称で、「オスマントルコ」は、外の国が呼ぶ呼び名
- オスマン帝国の支配層は「トルコ人」であり、「トルコ語」を話し、イスラム教徒
- オスマン帝国の最大領土は…北はハンガリー、西はアフリカのアルジェリア、南はエジプト・イエメン、東はインドに至る
- オスマン帝国が強かった理由は、どんな民族でも女性でも、権力を持てるチャンスがあったからこそ、多くの人によって国家が支えられていたから
- オスマン帝国の最盛期は、16世紀のスレイマン1世の時代
オスマン帝国外伝、新オスマン帝国外伝と言う素晴らしいドラマのおかげで、オスマンに興味を持った方の疑問は解決できたでしょうか。
日本の江戸幕府は230年続いた文明として世界的にも名高いですが、それよりもはるかに長い623年続いたオスマン帝国の偉大さが伝わればと思います。しかも日本と違って、周り中陸続きの敵だらけ…世界的強さもまた、格別です。