オスマン帝国のイェニチェリ(歩兵常備軍)とはなに?なんで反乱ばかり?

オスマン帝国は、623年続いた大帝国です。特に第10代皇帝のスレイマン1世の時代には、ヨーロッパからインド・アフリカと3大陸にまたがる大帝国を築きあげました。

オスマン帝国の戦の強さの秘密は、イェニチェリ(歩兵常備軍)と呼ばれる特殊部隊がいたからと言われています。

オスマン帝国外伝のドラマの中でも、度々イェニチェリは暴動を起こしたりして問題がありますが、国家にとってそれだけ無視できない組織と言うことです。

今回はオスマン帝国を根底から支えた奴隷制度と、イェニチェリの仕組みについて、歴史に基づいてお伝えしていきますね。

オスマン帝国のイェニチェリとは

14世紀から、19世紀までオスマン帝国の歩兵常備軍がイェニチェリです。イェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味します。

モンゴルのチンギスハンの襲来後に、オスマン帝国の主力だったトルコ系軽騎兵の軍事力に頼らない、君主の直属兵力として位置づけられています。

最初はキリスト教徒など、異教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍でした。

15世紀半ばより、オスマン帝国ではキリスト教徒の町を襲撃して子どもを略奪し、その子たちをイスラム教徒に改宗させて、英才教育を施す「デブシルメ制」が考案され、安定的な人材供給がされるようになりました。

デブシルメ制とは

オスマン帝国は、敵対するキリスト教徒の土地に攻め入り、才覚ある子どもを略奪してきて、奴隷として英才教育を施しました。その子たちが成長したら「イェニチェリ」と呼ばれる皇帝直属の歩兵部隊に入ったり、スルタン側近の政治家として活躍した。

オスマン帝国の数世代の中の宰相たちの多くは、このデブシルメ制による奴隷上がりだと言われています。

デブシルメ制度で集められた子どもたちは、英才教育を施され、あるものは国を作る高官になり、あるものはイェニチェリに入隊しました。

オスマン帝国外伝の中のデブシルメ制の奴隷は?

イブラヒム、リュステム、ソコルル、スンビュル、タシュルジャルなど

オスマン帝国は、国家戦略によって奴隷により成り立つ社会だったのです。

16世紀に銃器が普及し始めると、イェニチェリもいち早く銃を取り入れ、国力を上げることに貢献しました。

イェニチェリはいつから始まった?

イェニチェリは、オスマン帝国外伝のスレイマン1世の父親のムラト1世の時代に創設されたと言われています。

オスマン帝国が崩壊したのが1922年ですから、その少し前の19世紀まで、イェニチェリは国家を支え続けたというわけです。

イェニチェリの給料

オスマン帝国外伝のドラマの中では、しばしばイェニチェリが「給金をよこせ」「給金を上げろ」とデモを起こしています。

軍隊のデモなので、皇族も無視できず、へたをすると民衆を殺されて街を焼かれる大惨事にも発展しています。

また、イェニチェリに嫌われると、高官たちですら襲撃を受けて命が危ぶまれました。

泣く

リュステムとか、ちょいちょいイェニチェリと衝突していて、嫌われてましたよね。

基本俸給は一般人よりも高く、定期的な給料以外にも年金や一時金の支給があり、高い融資を受けることもでき、経済的にはかなり裕福でした。

泣く

ただし、戦争に出ると死の危険がありますけどね。

さらに、戦地で略奪行為などして得られる戦果もあったため、戦に出たがる傾向にありました。

スレイマンの時代にはイェニチェリの戦力は、そのまま国力として国を大きくしたため、イスタンブールのみならず、オスマン帝国各地に駐留させるようになりました。

イェニチェリの変化

イェニチェリは皇帝直属の主力軍隊として、イスタンブールの兵舎に住むのが一般的でした。

当初は妻帯が禁止されてましたが、新オスマン帝国外伝のキョセムの時代には、ズルフィカールとか普通に結婚しているので、制度も緩くなっていったとみられます。

イェニチェリの待遇の良さから、デブシルメ制の奴隷ではなく、生まれつきムスリムのトルコ人が入隊することが増え、妻帯者や家族を持つものも次第に増えていきました。

イェニチェリの反乱

オスマン帝国外伝のシーズン1の40話あたりや、シーズン4のリュステムとの確執など、物語でもしばしばイェニチェリは反乱を起こしています。

給金を上げる暴動の意味もありますが、ある時は宰相を更迭させたり、皇帝を暴力的に廃位させることもありました。

新オスマン帝国外伝の皇帝のオスマンやイブラヒムは、イェニチェリの反乱によって死に追いやられています。

イェニチェリの反乱は国の衰退と思われがちですが、民意を反映した革命により、皇族の暴走をけん制する意味も持っていたため、国の反映に貢献したとも言われています。

イェニチェリの廃止

1826年、西洋の軍隊に比べて時代遅れであったイェニチェリは、新たな西洋式軍隊「ムハンマド常勝軍」の創設により廃止されました。

当時の皇帝マフムト2世はイェニチェリにより反乱を起こされますが、これを鎮圧。イェニチェリの4000名ほどが殺害されましたが、当時のイェニチェリは街中でも暴動を繰り返すやっかいもの。市民の支持もなかったため、この反乱の鎮圧は喜びとして歴史に刻まれました。

その後、イェニチェリの支配下にあったセルビア人居住地域の独立や、オーストリア・ハンガリー帝国の反映と共に、ロシアも参戦する第一次世界大戦に突入。

イェニチェリの廃止から数十年後に、オスマン帝国そのものも滅亡してしまうのでした…。

オスマン帝国・イェニチェリのまとめ

  • イェニチェリは君主の直属兵力で、14世紀から19世紀まであった。
  • 最初はキリスト教徒など、異教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍だった。
  • イェニチェリはお給料のほかに年金や特別融資を受けることが出来、経済的に潤っていた。
  • イェニチェリはしばしば暴動を起こし、皇帝を2度も死に至らしめた。
  • 1826年、ヨーロッパ軍隊から遅れをとったイェニチェリは、廃止された。